堀江敏幸『いつか王子駅で』

いつか王子駅で

舞台は王子駅周辺でなく都電荒川線をもう少し三ノ輪橋方面に進んだ、下町の賑わいと場末のわびしさが交錯するあたり。とりたてて物語的な出来事がおきるわけではない。大学の時間給講師や翻訳で日銭を稼ぎ時間だけはたっぷりある「私」と、この街にすむさまざまな人々との交流が淡々と描かれている。そして、それと同じくらいの比重で描かれているのが終戦前後に書かれ今ではほとんど読まれていない島村利正の小説についての話題だ。このあたり、同じ著者がパリ郊外の日常を描いた『郊外へ』と同じテイストを感じる。ただ、視線はこちらの方が暖かで、ものごとを地についた低い位置から見上げようとする意志を感じる。

いわゆる私小説だが、『郊外へ』のほとんどのエピソードが創作だったように、こちらもやはり(文学作品に関する記述以外は)創作なのだろう。第一、著者自身は時間給講師などではなく、明治大学の教授だ。この小説の中で「私」が味わっている無為な「自由」こそが最も架空度が高く、著者がほしくてたまらないものなのかもしれない。