鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』
WWWではもっと鋭いことを書いていると思うのだが、単著ということで若干おとなしめ。
第1章は最近よくいわれるニートやフリーターなどの若者の就業意欲の話。人生のレールと呼ばれるものが消滅した現在、社会経済的な要因が大きいとはいうものの、「ほんとうにやりたいこと」を追いかけてなかなか正規雇用されようとしないという傾向も確かにある。そこでは自己が、やりたいことに向けてのハイテンションと、やっぱり不可能だという冷静な鬱状態の間で引き裂かれている。
第2章は監視社会。今進行しているのは国家が国民を監視するというのではなく、市民自らが自分たちを監視しているということ。
第3章は携帯電話。携帯電話はコミュニケーションの形を変えた。若者たちは繋がりそのものではなく、繋がりうるという可能性を無内容なメッセージを交換することによって確認している。
と、ここまでは目新しいことは何もないし、共通点のない散漫な話なのだが、そこで共通項とくくり出されているのが、自己をめぐる再帰的な回路だ。近代前期までは自己を統合するような主体というものがあって、特定の規範やモデルを反省的にとりこむことによって自己を形成していけたけど、現代ではもうそのような規範もモデルも存在していなくて、それらを自分の内部の「やりたいこと」や自己を定量的に規定するような「データベース」に再帰的に問い合わせを行なうしかなくなっている。
というところから、本書の主題である、終章の「カーニヴァル化するモダニティ」につながる。カーニヴァルとは、共同体のようにある種の構造を維持していくのではなく、共同性(繋がりうることの証左を見いだすこと)をフックに瞬発的に盛り上がれることが、集団への帰属感の源泉となっていることをさしている。そして、いわゆる若者の右傾化というのは、むしろ「カーニヴァル化」なのではないかという分析がなされる。
本書の中でも言及されている北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』との最大の相違点は、「再帰」を「反省」と連続なものとみなすかどうかだと思う。確かに反省が内部に閉じることにより、内容が異なってくるであろうことは理解できるのだが、そこはもう少し詳しく分析してほしかった。あとは「データベース」というのがいくつかの文脈で具体的に何をさしているのか、わからなかった。そちらも説明がほしい。
★★