三浦俊彦『論理学入門 推論のセンスとテクニックのために』

論理学入門―推論のセンスとテクニックのために (NHKブックス)

論理というのは不思議だ。たとえば数学の証明問題でいうと、情報はすべて最初に与えられていて、途中で、実はAはBの父親だったということが明らかになったりは決してしない。それをいくつかの自明な推論規則、たとえば「PならばQ」と「Pである」から「Qである」を導き出すようなことをくりかえすと、最初はまったく見えなかった結論がでてくるなんて、神秘としかいいようがない。証明なんて面倒なことをしなくて、最初からわかってもよさそうなものなのに。

さて、本書は二部構成で、前半がタイトル通りの論理学入門だ。論理なんてとっくにわかっているわいとその部分は復習のつもりで読み始めたのだが、演習問題が解けない解けない。言葉を論理式に変換したりその逆をしてみると、ふだんいかに非論理的に言葉を使っているかがわかる。

後半は、「人間原理」というものに対する考察。ぼくらが観測する宇宙は、一見ありえない偶然に思えることであっても、「観測者としての人間が存在しうる」という前提のもとで考えれば、かなりの確率であり得たりする。たとえていうと、サイコロで100回連続6が出るのはすごい偶然だけど、99回出たあとだと、100回目は1/6の確率にすぎない。常に人間が存在することによる偏りを考えなくてはいけないという原理だ。

この原理はかなり悲観的な推論に使うことができて、これと平凡の原理(人類がきわめてありふれた存在であるとみなす原理)を組み合わせると、知的生命体が地球以外に存在する可能性はきわめて低いし、人類が西暦3500年を迎えられる可能性が25%しかないことが論理的に証明できてしまう。さもありなん。

著者は、人間原理を「宇宙には人類のような観測者の存在が不可欠だ」というように歪曲して用いることを戒めているが、それがゆきすぎて、観念論(すべては心の中にあるという思想)全般や永井均の<私>にまで非難の対象が広げられている。論理自身は普遍的なものといえるのかという根本的な疑問をおいておいたとしても、唯物論の立場から観念論を否定することはできないはずで(だって人間が何かを認識するということは「観念」として認識することなのだから)、永井均に対する批判にも誤解があるような気がする。

そういうところをさっぴいても知的刺激にあふれた本だと思う。

★★★