神原正明『『快楽の園』を読む ヒエロニムス・ボスの図像学』

9月に渋谷でベルギー奇想の系譜展という展覧会を見てきた。展示の中心の一つはヒエロニムス・ボスの作品で、もちろん今回来てなかったのだがプラド美術館にある大作『快楽の園』に対する興味をかきたてられたところにたまたま美術館の上の本屋で見かけたのが本書。 ...

原田裕規編著『ラッセンとは何だったのか? ─消費とアートを越えた「先」』

まず、ぼくにとってのラッセン的なものとの出会いを語っておく。繁華街を歩いていると、若い女性が通行人に何か手渡そうとしていて、そのとき風邪をひいていたぼくはとっさにティッシュだと思い手をのばすと何かチケットのようなもので、今展示会やっているから中に入れという、その展示会というのがアールヴィヴァン社の悪名高きエウリアン商法との出会いだ。もちろん中には入らなかったので展示されていたのがラッセンかどうかはわからないが。アートがわからない若い男性にそういう商法で売りつけようとしているものという刷り込みがあったせいもあり、ラッセンの作品をまともに見ようと思ったことはなかった。 ...

シャーロット・コットン(大橋悦子・大木美智子役)『現代写真論 コンテンポラリーアートとしての写真のゆくえ』

本書は、コンテンポラリーアートとしての写真を、×写真家を羅列するのではなく、×様式やテーマで分類するのでもなく、×歴史を通して語るのでもなく、○写真家のモチーフや製作方法で分類し、その世界の広がりを概観しようとした本だ。 ...

森山大道『犬の記憶』、『犬の記憶 終章』

森山大道本人の言葉を借りるなら、「自身の記憶に基づき、僕を通り過ぎた時間にあった幾多の出会いや出来事について、撮り、記すこと」というテーマはどちらの本も共通しているが、タッチはかなり違っていて、1980年代はじめに書かれた『犬の記憶』は、微細なひとつひとつの記憶の根源をクローズアップで深くえぐっていくような力のこもった文章だったが、それから15年おいた『終章』では、森山大道の半生を俯瞰して、関わった街や人物についてナチュラルに語っている。どちらも彼の写真同様、陰影に富んだ魅力的な文章で、思わず引き込まれてしまう。森山大道に限らず、おそらく、撮った写真と書いた文章は不可避的に同じ強さと弱点をもってしまうのだろう。 ...

飯沢耕太郎『増補 戦後写真史ノート 写真は何を表現してきたか』

本書は日本の戦後の写真表現の歩みを概観しようとした本であり、太平洋戦争の終結から現代までを昭和20年代、30年代、40年代、50年代以降、そして1990年以降(岩波現代文庫収録にあたり増補された章)といういくつかの年代に区切って、そのときどきに活躍した写真家、起きたムーブメント、その文化的な背景を紹介している。 ...

多木浩二『写真論集成』

芸術の秋ならまだしも真夏に読むにはかなりつらい本だった。四部構成だが、特につらかったのは第一部で、そこで語られるのは写真そのものではなく、むしろ写真を語る言葉についてで、ページを追っているつもりが、しばしば迷子になってどこを読んでいるのかわからなくなった。撮る「主体」と撮られる「現実」という両極端な二元論を越えて、主体が意識せず現実そのものではない未知のものが、写真には写るということをいわんとしているのだと思うのだが。 ...

若桑みどり『絵画を読む~イコノロジー入門』

バロック期の写実的な絵画が好きでよく観にいったりするのだけど、見えるものをそのまま描いたものはほとんどなくて、ひとつひとつの図像に意味が隠されているという話をきいて興味をもった。この本を手に取った理由はそういうところにある。 ...